♪ 五九郎音頭を聴きながら、
↓このページをお楽しみくださいませ~ ♪
提供/吉野川市教育委員会生涯学習課
永世の碧碑・曽我廼家五九郎の碑
(浅草)
浅草に喜劇王と言われた曾我廼家 五九郎(そがのや ごくろう)の顕彰碑があります。明治~昭和前期に東京浅草などで活躍した喜劇俳優で、この石碑には彼が主演を演じた映画「ノンキナトウサン(通称ノントウ)」が描かれていて、その上には彼が好きだった「群盲撫象」の文字も一緒に刻まれています。
五九郎さんは満49歳のころ、麻生豊の漫画『ノンキナトウサン』を映画化した故畑中蓼坡監督の『ノンキナトウサン 花見の巻』、故小沢得二監督の『ノンキナトウサン 活動の巻』に主演、浅草の日本館等で公開され人気を得ました。トウサン役は五九郎さんの当たり役となり、その人生ストーリーを讃えた歌「五九郎音頭」は、生まれ故郷の徳島県で「五九郎まつり」として、毎年6月最終土曜日に盆踊りと共に披露されています。(唄:大川栄策)
『浅草・五九郎さん すだちパウダー』ネーミングの由来
むかしむかしの1912年、日本の浅草に、曾我廼家 五九郎(そがのや ごくろう・Gokuro Soganoya)と言う有名な喜劇俳優がおりました。「のんきな父さん」が大ヒットして「浅草の喜劇王」と言われました。1923年、日本に関東大震災という大きな大きな地震がありましたが、当時、ほとんどの木造の家が焼け、浅草の街は、悲しみのあまり、どんどん暗くなる一方でした。あることわざに ”喜びにあふれた心は良い薬になり、打ちのめされた心は体を弱らせる” とあります。五九郎さんは、すぐに、お金やお菓子、日用品を入れた喜びの「笑い袋」を被災者に配って回りました。そして『いつの世も、笑いが大切だよ』と、最後まで「笑い」を届けました。
莫大な私財を投げ打って人々を支援する五九郎さんを見て、没後、浅草公園に石碑(1963)が建てられました。そこには「あなたは小さな身体に、大きな希望を抱いた。〝ご苦労様〟と言われ、その言葉を芸名にした」と刻まれています。
その五九郎さんは、徳島県で生まれ、地元から送られて来た大好物の香味「すだち」も一緒に、喜びの「笑い袋」に入れて配ったと言われています。すだちパウダーは、そんな五九郎さんの思いを全ての人に届けたいと、「浅草・五九郎さん すだちパウダー」と名付けられました。
五九郎さんは、1907(明治40)年に曾我廼家五郎(そがのや ごろう / 1877〜1948)喜劇一座に入門し、僅か3ヶ月後に独立。曾我廼家五九郎を名乗り、東京・浅草六区を中心に公演を行い「浅草の喜劇王」として活躍しました。
1923(大正12)年9月の関東大震災で罹災し、震災後の1925(大正14)年9月に、麻生豊・原作の漫画「ノンキナトウサン」(夕刊報知新聞で大正12〜15年連載)の実写映画(白黒無声映画)に主演、このトウサン役が当たり役となりました。
1963(昭和38)年には、浅草寺境内に、五九郎の座右の銘「群盲撫象(ぐんもうぞうをなでる=仏教の有名な説話)」に「ノンキナトウサン」の像が描かれた顕彰碑が建立されています。
関東大震災で罹災した時の逸話―――曾我廼家五九郎の遭難談全文(1923年9月22日夜)―――
『 イヤもうわらい事で、あんな騒ぎはまだ日本のどの読本にも載っていまへん。
結局あらゆる文明の利器が何にもならずに、蝋燭と井戸が一番役にたったという始末です。
朝寝坊の私が目を覚まして起き上った時が第一震でした、火が危いと気が付いたので早速買集めた骨董だけを持出し専売局(当時の大蔵省専売局)の広場へ逃げたのですが、荷物に飛火するので道具は皆川へ投げ込めとの命令で、千萬惜しいと思いましたがそれらの品を全部隅田川へ水葬しました。それでも命が危いので細引きで身体をくくりつけ、子供二人と妻と母親とが、水の中へつかり眼と鼻と口だけを水の外へ出していました。
ピストルで殺してくれとせがむ家族をなだめつつやっと翌朝川から這い上り、乳母車を拾って老婆を乗せ引ずり途中焼けた砂糖を拾ってなめたりしながら、浅草まで逃れ田端の別宅に着きました。 』
「五九郎祭り」は毎年開催!
「五九郎音頭」で盛り上がります♪